成島八幡神社の神職の家に生まれた景綱は、政宗の父である輝宗によって、十歳年下の政宗の傅役(もりやく)として抜擢されました。
ときに苛烈ともいえる景綱の教育により、政宗は、しだいに文武の才と帝王学を身に着けていきます。
政宗の見えなくなった右目が飛び出してきたとき、輝宗が近侍の者に突き潰すことを命じましたが、誰も怖気づいて従いません。
景綱は、小刀で突き潰す役を引き受けました。(『性山公治家記録』)
二人の信頼関係をあらわす有名なエピソードです。
また、こんなエピソードもあります。
徳川政権も固まった政宗の晩年の話です。 寄合の席で、政宗の肩衣が、徳川家の旗本の膝にかかりましたが、政宗は、無視して素通りした。 怒った旗本が、扇を抜き、政宗の顔面に殴りかかります。
政宗は、その後、帰ってきた景綱に「小身衆に、本気になることではないので、軽くいなしたよ」と一部始終を語ります。
景綱は、「もっともですな。しかし小身衆に無礼を働いたりしないよう、もっとお慎みください」と答えたという。
この喧嘩未遂事件は、細川忠興の手紙にも残っており、実際にあったと思われますが、話の筋にはいろいろバージョンがあり、景綱のコメントがあったかも、真偽は不明です。
しかし、政宗に歯に衣着せぬ物言いができる景綱の立場と、なにより景綱の政宗に対する忠心を表しているような気がします。
そんな景綱だからこそ、政宗も終生、信頼を置いたのでしょう。