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ルイス・ソテロ

稀代の虚言師か? 敬虔なる神の僕か?

ルイス・ソテロは、遣欧使節を企画し、支倉とともにローマに渡った宣教師です。
ソテロほど劇的な生涯を送った人物を私は、他に知りません。
江戸で将軍秀忠の命により、火あぶりの刑に処されようとしていたソテロは、寸前で政宗の嘆願により命を助けられます。
この時点でノズスパニア(後のメキシコ)との交易を企図していた政宗は、イスパニア語と日本語に驚くほど精通するソテロを、喉から手がでるほど必要としていました。
奥州に向かったソテロは、後藤寿庵らとノズスパニア行きの使節について、協議することになります。
ソテロは、しだいに政宗の信任を深め、政宗に使節のローマ行きを承認させました。

虚言師の真骨頂

支倉らと月ノ浦を出港したのは、一六一三(慶長一八)年のことです。
その卓越した語学力で、ほとんど自由に会話の内容を操作できたソテロは、あることないことイスパニア側に伝え、交渉を有利に運ぼうとしたと思われます。
「どうせ海の向こうの日本の情勢など多少誇張してもわからないだろう」というのが偽らざる気持ちだったかも知れません。
ソテロは、政権末期だったイスパニアのフェリペ三世から、資金の融通を引き出し、ついにローマへ向かいます。
ローマでも大きな歓迎を受けた使節。
しかし、ソテロの所属するフランシスコ会と対立するイエズス会の横槍などにより、禁教令により悪化する日本の情勢とソテロの嘘はしだいに明るみに出ることとなります。
情勢の不利を悟ったソテロは追われるようにして、マニラに渡りました。

敬虔なる殉教者としての最期

マニラでのソテロの生活は、敬虔そのものだったと伝えられています。
ソテロは命の危険を覚悟の上で、日本に密入国を企て、囚われてしまいました。
政宗がソテロを助けようと、重臣に送らせた老中あての書状が残っています。
一六二四(寛永元)年、ソテロは肥前国大村で、今度は本当に火あぶ゙りにされてしまいます。
稀代の虚言師か? 敬虔なる神の僕か?
ソテロの評価は分かれるところですが、ソテロの驚くべき行動力なくして慶長遣欧使節が成り立たなかった事実は確かです。
政宗公ワールドでは、ソテロら慶長遣欧使節が訪ねた旅程を辿る企画を連載予定です。
乞うご期待!