1636年4月20日、伊達政宗は病をおして参勤のために江戸に向かいます。その2日前、母の菩提寺保春院にお参りしたのち、ホトトギスの初音を聞こうと北山・経ヶ峰・茂ケ崎山など城下の山々を巡ります。声を聞く事は出来ませんでしたが、経ヶ峯で、「死後はこの辺に葬られたいものだ」と杖を立てた場所が瑞鳳殿の建っている場所です。
翌月の5月24日、江戸の上屋敷で亡くなりました。死因は、食道噴門癌による癌性腹膜炎で、享年70才でした。
政宗をまつる瑞鳳殿は、亡くなった翌年の秋、2代藩主忠宗によって建てられました。1931年に桃山建築の絢爛豪華な特徴をもった霊廟として国宝に指定されましたが、1945年7月10日の仙台空襲で全ての建物を焼失しました。
現在の建物は、宮城県や仙台市・県内外の市町村や企業・個人から寄付を集め、5年と8億円を費やして1979年に再建されたものです。
「るーぷる仙台」のバス停「瑞鳳殿前」から坂を登り、仙台藩62万石にちなんで造られた62段の石段を上がると瑞鳳殿です。石段両側の杉の巨木は樹齢400年を数えます。
拝殿と唐門は簡単な造りに変えましたが、それ以外は元どおりに再建されました。涅槃門は、樹齢数百年の青森ビバに黒漆を施し、梁には金箔の上に唐草模様の透かし彫りが張り付けられています。材料はクスノキですが、焼失前は白檀が使われていました。白檀は日本には自生していませんから、南方から輸入して用いたのでしょう。門扉の「菊紋」は豊臣秀吉から政宗が拝領したものです。
拝殿の扁額「瑞鳳殿」は、再建に当たって寄贈されたもので、焼失前の扁額の文字・材料と同じものが使われ、文字は真珠の粉末、地のピンクは赤サンゴの粉末、時価2百万円。焼失した扁額は、5代藩主吉村の寄進で、江戸時代中期の書家佐々木文山に3百両を支払って書かせたものでした。
このような巨額な財を投じた豪華な霊廟の建立は、外様大名である仙台藩が、幕末まで続く基礎を築いた政宗に対する敬愛の思いが如何に深いものであったかを表わしているのではないでしょうか。