仙台が城下町として形成されたのは、今から約400年前、政宗公によってで、かつての国分荘の地での、仙台城の縄張りから始まりました。
着手して3年目の慶長8年(1603)に政宗公は藩士(家臣)を岩出山から仙台に移しました。その人口は家臣・町民・寺方併せて約5万人とも言われています。
政宗公は仙台の町を、城を中心に「武家地」「寺社地」「町人地」の3つに分けました。江戸中期、武家地は城下の総面積の約6割、寺社地2割・商人地も約2割だったようです。圧倒的に武家地が広かったのが仙台城下の特徴で、町人や職人衆は狭い区域に過密状態で暮らしていたことが伺えます。
城の周囲の川内・片平丁などには階級の高い大身士が配置されました。城下中心部には、東西に大町・新伝馬町(旧日形町)、南北には北鍛冶町から田町まで連なる町人町が並び、国分町の西側には有力な商人が住む町人町が設置されました。
仙台城下では北一番丁のように侍の住む屋敷を「丁(ちょう)」と呼び、これに対して三百人町のような足軽や、大町のような町人の住むまちを「町(まち)」と呼びました。