仙台城下の屋敷割について見ますと、城下町創設当時は、藩士等の住む侍屋敷と各種職人の住む職人屋敷、そして町人の住む町人屋敷とは歴然と区別されていました。しかも住民同士の相互生活と城下町の防衛が考慮されていました。城下町仙台も身分制度に基づいて厳格に居住地が決められていました。
藩政時代の侍屋敷は階級(石高)によって、与えられる屋敷の場所や敷地面積(坪数)が定められていました。つまり、屋敷の表(間口)と裏(奥行)の間数で広さが決まっていました。
例えば300石の中身侍級では間口21間(約38m)、奥行30間(約54m)、屋敷面積630坪。百石以下の下級侍級は面積300坪。足軽175坪。職人150坪。町人屋敷は職人と同じ間口6間・奥行25間。因みに上級家臣級になると、城に近い川内や片平丁界隈では屋敷面積2000坪~5000坪くらいにもなっていました。
旗本足軽は二の丸や西川内、国見街道の半子町に配置されました。普段の足軽は外部に通じる街道の端か、市街地の外側に置かれました。つまり、七北田街道に通ずる堤町や今の仙台駅東口の鉄砲町、作並街道の八幡町東に、さらに江戸街道では南鍛冶町から南材木町西側に置かれました。