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政宗公と地名「仙台」

「政宗公ワールド」プロジェクト 理事 二 郷にごう まこと

伊達政宗公が開府した「仙台」の名称のセンダイという語音はいつから、どうしてこの文字になったのか?今日は、建築やの戯言、遊び話として聞いてください。

豊臣秀吉の奥州平定によって、全国統一をほぼ成し遂げた時期、伊達氏の拠点は米沢にありました。この時後の「仙台城本丸」となった場所には、チヨの文字があてられた「千代城」があり、政宗の叔父、国分彦九郎盛重公の居城でした。この「千代」を現在につながる「仙臺」と改め命名したのは、慶長5年(1600)12月「仙台城縄張り始め」の時とされています。仙台市教育委員会編の「仙台城」の中、伊東信雄先生記述で「千代城」の千代を「仙臺」という文字で表した初見は 慶長6年(1601)4月18日付の「今井宗薫宛の政宗書状」にあるとあります。又、最も古い資料とされる「高祖父輝宗、曾祖父政宗、祖父忠宗記録抜書」によると、仙台城近辺に「「千体仏」(センタイブツ)があったことから「千体」(センタイ?)の地名がつき、以後「千体」から「千代」の文字(センタイ?センダイ?チヨ?)に改められたとあります。そのほか諸説がありますが、天正15年(1587)、米沢にいた、二十歳の政宗公が叔父の国分盛重公の事を何とかするよう伝えた泉田安芸守宛の書状の中に、面白い発見をしました。初めてチヨの千代ではなく千代の千と現在の仙台の古い臺の字が組み合わせられセンダイとのみ読める語音の単語が出てきました。何故…?政宗公の頭の中にあった別な意味での仙臺の文字が重なり、表記されたのではないかと推理します。博物館等の文献には「仙台」命名の由来は、韓翃の七言律詩 「同題仙遊観」にある、「仙台初めて見る五城楼 風物凄凄として宿雨収まる 山色遙か・・・」が起因ではとあります。古代長安の「仙臺」とは、中国で伝説上の存在として知られる「仙境崑崙山の五城十二楼の宮殿」の「仙遊観」に由来するとされます。先の書状と重ね、考えると、この時の政宗公は、既に韓翃の七言律詩 「同題仙遊観」を読みとき、その世界、「仙臺」「五城楼」と、自らの達すべき将来を夢見ていたに違いありません。その胸中には、漢の文帝のごとく、広く大陸に覇権を展開し「仙遊観」のような権威の集大成で、風雅に満ちた城郭を、二十歳の政宗公が既に、米沢の地で、思い描いていたのでは…!いざ岩出山からの城替えの時、念頭にあった「仙臺」の名と「五つの楼閣」巽櫓、艮櫓、東脇櫓、西脇櫓、酉之門櫓の構築を迷うことなく命じたと思います。西暦 1600 年、まだ我に機会ありと思うと同時に、遠くイスパニアにまで常長を派遣する様な大きな思いを持って「仙台」の地名を命名したと思うのですが、如何でしょうか・・・!