仙台胴とも奥州胴ともいわれる伊達家中や仙台藩主の五枚胴具足には、鉄砲で胴部に「試し撃ちをした跡」のある具足がたびたび見うけられます。
古くは政宗の従兄弟で猛将として知られる伊達成実の具足(伊達市開拓記念館 所蔵)や、政宗の家臣片倉重綱の具足(仙台市博物館所蔵)、また仙台藩六代宗村、七代重村の具足(ともに仙台市博物館所蔵)などです。
この胴部の鉄板に試し撃ちをする流儀は、一体何が起源なのでしょうか。
近年、一部の研究者は、ヨーロッパの流儀が起源ではないかとの仮説をいだくに至っています。
次ページから、詳しく述べましょう。
ルネサンス期のヨーロッパでは、試し撃ちをした甲冑がしばしば見られます。
紀州東照宮に伝わっている徳川家康所用の南蛮胴具足(写真上)は、ヨーロッパで製作された甲冑の胴部に、日本の草摺をつけ改装していますが、胴部には十箇所の試し撃ちの弾痕があります。
これが日本に残る試し撃ち跡のある鎧胴部の初見です。
このようにもともとヨーロッパで甲冑の胴部に対して試し撃ちを行う流儀があり、徳川家康が着目し、日本で鉄砲戦の時代に具足胴部の鉄板への試し撃ちとして模倣されたのではないでしょうか。
伊達家では政宗により五枚胴具足とともに採用されたと考えられます。
仙台藩ではそれがずっと継承され、全国では伊達家のみで江戸時代を通しずっと行われ続けていったのでしょう。
一六一一年、政宗は、江戸でスぺイン大使ビスカイノの一行と出くわします。
政宗は、ビスカイノに西洋の長銃の発射を頼み、その爆音に驚いた政宗一行の馬が人を地上に投げて走り転倒するのを見て、政宗は死ぬほど笑ったと記録されています。
このような武器に対する政宗のみずみずしい好奇心・関心が、伊達家では、試し撃ちというかたちに表れ、二百年も継承され息づいていったのでしょう。